ブラジルやアメリカでは柔術とサーフィンは切っても切れない関係にあり、多くの柔術家がサーフィンを楽しみ、また多くのサーファーが柔術を練習するようになっています。
しかし一体なぜ両者はクロスオーバーすることになったのでしょうか。それには過去に起きたある事件がきっかけだったのです。
柔術とサーフィンが衝突した日
柔術家がサーフィンを始めるきっかけになったのは1970年代にまでさかのぼります。グレイシーファミリーの中で一番最初にサーフィンをやりだしたのはカーロス・グレイシーの四男ホーウス・グレイシーでした。
一族でも特に好奇心旺盛だったホーウス・グレイシーはサーフィンだけでなく、ハンググライダーなど自然のスポーツを愛好していました(後にハングライダーの事故で31歳の若さで死亡)。
そんなホーウス・グレイシーはある日、リオデジャネイロのビーチ、プライア・ド・ジアボにてサーファーのグループと波をめぐって口論になりました。
サーファーのグループは30人ほどの大人数だったため、ホーウス・グレイシーは自分の道場に戻って生徒たちを引き連れてビーチに戻りました。
それでも集まったのは15人ほどで相手の半分ぐらいの数だったといいます。その中には当時まだ14歳だったヒクソン・グレイシーの姿もありました。サーファーたちのリーダー格はブラジルで当時有名だったダニエル・サバー。
体も大きく空手もやっていたダニエル・サバーは体重わずか70kgにも満たないホーウス・グレイシーを完全に過小評価していました。
しかしホーウス・グレイシーがダニエル・サバーを倒すのには1分もかかりませんでした。ダニエル・サバーの攻撃を避けてテイクダウンしたホーウス・グレイシーは瞬く間にマウントを取り、完全にコントロールしたのです。
その瞬間はダニエル・サバーはそのテクニックに驚愕してたちまち降参。するとホーウス・グレイシーは一発も攻撃を加えることなく彼を許してあげたそうです。
ちなみにほかのサーファーたちはみんなその場でホーウス・グレイシーの生徒たちに絞め落とされたか、一目散に逃げたそうです。ヒクソンはまだ子供だったためその光景を遠くから見学していたと語っています。いずれにしろこの事件がきっかけでサーファーたちの間で柔術が注目されるようになりました。
喧嘩があった翌日ホーウス・グレイシーが早朝からサーフィンをしていると、再びダニエル・サバーとビーチで顔を合わせました。
お互い海を愛する者同士、そして一度拳を交えた二人の間には自然と友情が芽生え、ホーウス・グレイシーはダニエル・サバーを自分の道場に招待しました。その後、ダニエル・サバーも長い間柔術を練習することになります。
グレイシーファミリーとサーフィンの歴史
ホーウス・グレイシーの影響もあり、従兄弟であるヘウソン・グレイシーも同時期にサーフィンを始めます。ヘウソン・グレイシーは後にハワイに移住し、現地で柔術の普及に努めますがハワイでもサーフィンを続けたのは想像に難しくないです。
また、彼らの影響もあってヒクソンやホイラーもサーフィンを始めます。このようにグレイシーファミリーの中でサーフィンはライフスタイルとして広まっていきました。
後に一族のメンバーが次々とアメリカ各地に移住し、柔術を広めていくことになりますが、移住先に海があってサーフィンができるハワイやカリフォルニアが選ばれたのも偶然ではないはずです。
また、ホーウス・グレイシーのほかにもビーチでサーファーと喧嘩になった柔術家は数知れず、皮肉にもそれがきっかけで柔術とサーフィンが幾度となく交差していき、絆を深めるようになっていきます。
柔術とサーフィンの交流は個人だけでなく、企業にも影響を与えました。サーフィンのブランドが柔術家をスポンサードするようになり、90年代にはライトニングボルトが柔術大会を開催。やがてサーフィン雑誌に柔術家が、柔術雑誌にサーファーが取り上げられることも多くなり、両者の交流が活発化していきます。
現在ではサーフィンを含むストリート系ブランドRVCA(ルーカ)がBJペン、メンデス兄弟、キーナン・コーネリアスといった有名柔術家のスポンサーになっている一方で、クリスチャン・フレッチャー、ケリー・スレーター、ジョエルチューダーなどの世界的なサーファーが柔術を練習しています。
すっかり多くの人々のライフスタイルとなった柔術とサーフィンですが、もとをたどればホーウス・グレイシーとダニエル・サバーの喧嘩がきっかけだったのです。
二人の男がビーチで戦い、後に友情を深め、彼らの友情の証でもある柔術とサーフィンが世界中に広まっていく、その光景はまるで青春漫画のようなストーリーですね。